私の証春日祥子姉記

受難節に寄せて吉田小夜子姉

私の証バウマン久美子姉

信仰の先輩に訊く山田メアリー姉

清い心を求めるーラリー・カーン

祝福への感謝ー吉田ジェリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田小夜子姉

皆さんは礼拝堂の左前方上のイエス・キリストがゲッセマネの園で祈られている絵画をよくご覧になっていると思います。この絵は”Christ ? Still Praying for Mankind” という題で、1978年に杉本ヘンリー譲画伯によって画かれたものです。同画伯が70歳を過ぎてからに日米合同教会の礼拝堂に捧げるために画かれた作品です。杉本画伯は1920年に受洗されてから奥様スージー・メイ姉と共に敬虔なクリスチャンであり、絵筆一筋に生きられた方です。多くの作品を遺されていますが、どの作品にもキリストの姿はなくとも背景にはキリスト教の精神が宿っています。

この作品には杉本画伯の平和への思いが画かれています。キリストの左背後に教会と平和な街、膝元には草花、小鳥、ウサギ、リスなどを平和の象徴とし、右後ろには原爆のきのこ雲、被災者の炎の中での叫びが画かれています。世界平和と人類の存続を今もなお、主イエスはとりなしの祈りを続けておられるのです。杉本画伯は「私の作品が世界の美術社会に貢献できることが私の願いで、それが神への栄光となることです。」

 

 

 

 

 

 

バウマン久美子姉

32歳の時でした。神様は私を背負い苦しい時を乗り越えさせて下さったのです。その日、もう子供たちと一緒に死ぬしかないと追い詰められていました。夜中に寝ている慶太(長男)の首を絞めました。しかし私は、その時6歳だった慶太の猛烈な力で蹴り上げられてしまいました。

翌日一人で青森へ向かいました。連絡船から飛び込むつもりでした。ところが甲板への出口は鍵がかかっていたり、人が立っていて飛び込む事が出来ませんでした。無力感でぐったりしていた時、ささやく声を感じたのです。"私がついているよ。私がついているよ。私がついているよ。” 私は"神様、あなたですか。あなたが私を守ってくださったのですか。慶太の信じられないような力も、甲板へ出られなかったのも、あなたが守ってくださったのですか。ごめんなさい。有難う。ごめんなさい。有難う。"と泣きながら東京へ戻りました。¢その後の数年間は極貧の生活でした。子供たちは勉強ができないことや母子家庭を理由にいじめられ、先生にも馬鹿にされていました。40歳の時、私は青山学院大学を受験しました。自分の番号が合格者一覧の中にあるのを見て嬉しさのあまり校門に抱きついて頬擦りしてしまいました。子供たちも勇気づけられました。"母ちゃんに出来るなら俺たちも出来るかも”と希望を与えられたのです。昼は会社、夜は学校という生活が続けられる様にと二人は家事を助けてくれ、期末試験の時は三人で黙々と勉強しました。二人は大学へ入学できました。神様は子供たちをダイヤモンドに変えてくださったのです。その後も幸せを増し加えてくださり、神様はとうとうここまで私を幸せにしてくださいました。

神様、あなたへの感謝のために私は何をしますか?といつも祈ります。現在私の時間や能力の80%は仕事に、20%は神様にです。「お金の50%は神様に、50%は自分に」が目標ですが、献金した後、"半分の額でも良かったのに”という気持が残ることがあり心が整えられていません。今は40%献金を守っています。"私の思いではなく、神様のみこころがなりますように。"この御言葉を心にしっかり据えて、理事として誠心誠意奉仕することを誓います。

 

 

 

山田メアリー姉

私達のとても敬愛する信徒、山田メアリー姉が1 月25 日、94 歳の誕生日を迎えました。1913 年にロサンジェルスで生まれ、19 歳までそこで育ちました。南カリフォルニア大学で医学を勉強した後、ニューヨークのベルビュー看護大学に出席、看護婦の資格を取得。その後、コロンビア大学ティーチャーズカレッジにて看護の学士号、また学校のカウンセラーになる為のガイダンスの修士号を取得。第二次世界大戦では、看護婦として27 ヶ月陸軍に奉仕しました。戦後、テストを受け、正式な高校カウンセラーの第一号の一人となりました。63 歳で母親の健康の理由で高校を退職してからは今日まで自由な人生を送っているそうです。??洗礼を受けたのは15 歳の時で、当時の日曜学校の先生によると、その教会では始めての日本人クリスチャンだそうです。好きな聖書の言葉は、「わたしは山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る(詩篇121 篇)」、「全地よ、主に向かって喜ばしき声を上げよ。喜びを持って主に仕えよ。歌いつつ、その御前に来たれ。(詩篇100 篇)」、そして「キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい。あなた方が召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。(コロサイ人への 手紙3 章15 節)」山田姉の生き方そのものが私達にとって大きな証です。「余り沢山の事は覚えていないけど、楽な人生じゃなかったとは言えるわ。でもいつも主が一緒にいてくださって、苦しい時期も乗り越えられたわ。」と笑いながら彼女は語っていました。 いつまでも主の光を放つ信仰の先輩であられます事を感謝。

 

ラリー・カーン

日米合同教会(JAUC)で感じていた気持ちが懐かしいです。肺の移植をしてもう2年がたちました。体の抵抗力がないので近所の教会には通常行っていません。JAUCに参加するだけでよく心の中に“甘い気持ち”を感じていました。今思うと、その心の中に与えてられていた甘い気持ちが私個人のデボーションを楽しくしていました。しかし教会生活なしではデボーションが
枯れ始めていきました。

私は「ロビンソンクルーソー」と言う島流しにされた男の冒険物語を最近読みました。彼はは霊的な乏しさを感じていました。毎日常識的な生活を送り上を向いて神様を求める時間も内側を向いて自分を見つめる時間もありませんでした。結果的に良きを求めず、悪に対し鈍感な心になっていったのです。私はこれを読んで自分も心の鈍感さが増えてきたと思いました。

私が通うリハビリで、ある男性が自分は毎朝3時まで祝福を数えると語っていました。私はそのまねをして自分の祝福を毎晩数えましたが、単なる運動にしか思えませんでした。その時イエス様の山上の垂訓のある節をまた読み返しました。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るから。」その後、自分の心の中にある不純さにもっと敏感になり、それに対処できるように祈り始めました。すると祝福を数えることが楽しくなりました。心が清いほど自分の祝福を考えると神様の手が見えてきます。そのおかげで、JAUCで感じていた霊的な気持ちが戻り始めました。


吉田ジェリ

家族が困難にある時、神様に対して感謝の心を持つことは難しいです。自分を憐れんだり、腹を立てたり、希望を失って嘆く方がはるかに簡単です。息子の学費援助を申請するために家計の記録をまとめていて、私は暗い気持ちになりました。卓上には納税書類や出費のレシートが山と積まれています。夫のピーターが病気で手術を受けたため、彼は今年は合計14日間しか働けませんでした。そして、私も彼と病院や薬局に通うため、何度仕事やオーディションの話を断ったか知れません。

けれども、この真っ暗な状態の中に神様の光が差し込んだのです。収支を計算し終えてみて、私は驚きました。家族全体の収入は、私達の必要をカバーする分与えられていたことがいたことが分かったのです。主は私達家族の必要を満たして下さいました。旧約聖書の出エジプト記に出て来る天のマナのように、それは多すぎもしなければ少なすぎもせず、また早すぎもなければ遅すぎもしない時に与えられたのです。

このような恵みは、決して私の行いや心がけによるのではなく、ただ私達一人ひとりに対する神様の愛によるものでした。私達は、自分達の手柄で主の恵みを稼ぐことは出来ません。主が私達に望まれていることは、ただ、謙遜に感謝する心を持ち、疑ったり感謝を拒む心を悔い改めることです。そして、私達を見捨てない主の福音を他の人々と分かち合おうと願うこと、これを主は望んでおられると思います。


春日祥子姉記

今から44 年前のこと、1963 年3 月、東京で日系 2世の主人と結婚式を挙げ、同年5 月にニューヨークに来ました。主人はその前の年に同郷人であった前妻を胃がんで失い、周りの人々に助けられながらも、2 歳と0 歳の女の子を抱えて困り果てていました。その頃、私は日本の幼稚園で働いていて、いつかは自分の子供を育ててみたいと願っていました。主人の状況を知った私の友達は、丁度良いからニューヨークに行き、助けてあげてはと薦めてくれました。更に亡くなった前妻のご両親や主人の姉にどうかお願いしますと頼まれて、一大決心をして主人との結婚、そしてアメリカ生活に飛び込んだのでした。

アメリカに来た当時、主人の兄2 人が同じ通りに住んでいたため、何かと助けてくれましたし、又まわりに少しずつ日本からの駐在員家族も住み始めていたので力になってもらいました。しかし、毎日の生活は私にとって戦いでした。子育ても頭の中の教育実習通りにはいかず、子供達に日本語を理解させたいと焦ったり、でも一歩外に出れば英語の世界なのでもうヘトヘトに疲れていました。

一番大変だったのは、価値観の違いから主人を理解できなくて苦しんだ事でした。毎日毎日、私は「こんな筈ではなかった、神様どうして?」と問いかけ、終いには「神様助けてください!」と叫んでいました。これが日本に居たのであれば、多分私は逃げ出していたかもしれません。神様はこんな遠くに私を遣わして、イエス様の愛について考えるときを与えて下さっているのだと今だから思えるのですが、当時は毎日の問題に「何故?」「どうして?」の問いかけの繰り返しでした。日曜日には近くのメソジスト教会の日曜学校に子供たちを送り、私は礼拝に出席するわけですが、英語の説教を理解できず、ストレスがたまるばかりでした。本当にいろいろなことがありました。

20 年位たったある日のこと、神様が私にささやかれました。あんなに“わからんちん“だと思っていた主人の事を「あなたと同じなんだよ。あなたが悩んだと同じように、あなたの夫もあなたを理解するのに苦しみ、同じように我慢してきたんだよ。だからおあいこさ。」と。その途端に私の心がすーっと軽くなったのを覚えています。「ああ、そうか。おあいこだ…。」そして主人の生い立ちを思えば、今なら価値観の違いも理解できるのですが、当時は自分ばかりが被害者であると思い込み、愛の無い私でした。何のために教会に行き、み言葉を学んでいたのでしょう。恥かしいことでした。

気がついたら子供たちは皆独立してそれぞれ家庭を持ち、私は年寄りになっていました。私は今自分の歩んできた道を振り返り、”耐え忍ぶ“ことの大切さを思います。「あなたがたの会った試練で世の常でないものは無い。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に合わせることばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである。」(コリント人への第一の手紙10 章13節)つらい時はこのみ言葉にすがりました。「すべての訓練は当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられるものに平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル人への手紙12 章18 節)「私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき弱り果ててはならない。主は愛するものを訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのである。」(ヘブル人への手紙12 章5-6 節)

まだまだ私を支えてくださったみ言葉はたくさんあり、神様はこうしていつも近くに居て私を今日まで支えてくださっています。この年になってやっと、なぜ神様が私の道を地球の反対側に備えられたかをかみ締めることができているのです。