皆さんはイエスがどんな顔をしていたか想像したことがありますか。ハンサムな顔立ちだったでしょうか。背は高かったでしょうか、それとも低かったでしょうか。残念ながら彼の
容貌について記した箇所は聖書に見当たりません。私たちは聖 書が記すいくつかの記事と照らし合わせて想像力を駆使し、イエスの顔立ちを各自で描き上げてみるしかありません。
イエスは古代パレスチナに生きるユダヤ人でした。ですから、ブロンドで青い眼の持ち主でなかったことは確かです。彼の皮膚は浅黒かった筈です。当時のユダヤ人男性の風習にならって、黒い髪の毛を真ん中から分けて、それを肩まで垂らしていたと考えられます。顎髭をたくわえていたことはまず間違いありません。何人かの聖書学者の研究によれば、寺院で話すことのできる人は背が高くなければいけないという暗黙の理解があったそうで、そうだとすればイエスは背が平均のユダヤ人男性より高かったのかもしれません。しかし、当時の大方の人々の食べ物が干し魚、いちじく、粗悪な葡萄酒、それに種無しのパンであったことから推測すれば、身体つきは痩せ形で、頬はこけていたのではないでしょうか。
イエスが福音を述べ伝え始めたのは30 才代の前半であることは分かっています。クリスチャン作家として知られる遠藤周作氏はここで面白い推測をしています。イエスは年より大分老けて見えたのではないかというのです。「ヨハネによる福音書」8
章57節にイエスとの論争に負けたユダヤ人が怒って「お前はまだ50才にもならないのにアブラハムを見たのか」とくってかかったという出来事が記されています。遠藤氏はそれに注目し、イエスは30才代で50
才近くに見えたのではないか、と推測しています。イエスの老けた容貌は、人々の苦しみや悲しみを自分のものとして背負われたことから来ていると彼は考えるのです。
聖書の記事に照らし合わせてイエスの容貌を想像してみるのは面白い知的作業です。またイエスの顔を考えることによって、イエスの抽象化に歯止めを掛け、イエスを近しい存在として感じ取ることにも役立つのではないでしょうか。あなたの想像するイエスの顔はどのようなものでしょう。
2007年6月
日米合同教会牧師 鈴木有郷
教会礼拝説教の要約
4 月22 日「わたしの羊を飼いなさい」ヨハネ21:15-19
この一言は、ペテロが復活のイエスによって完全に赦されたことを示します。しかし、赦されることは、今の自分に満足してしまうことではありません。ペテロは新しい生に目覚めると同時に、新たな責任を与えられました。その後彼はキリストを伝えにローマまで行きます。イエスとの出会いは人格の根本的な変革です。卑怯で弱いペテロが、強い精神の持ち主のペテロに変えられました。このような変化が可能なのです。
4 月29 日「神が求めた給うもの」イザヤ58:6-8
バージニア工科大学の事件のように、人生には不条理な出来事に遭遇することが沢山あります。そのような時にどう対応したらよいのでしょうか。預言者イザヤは、バビロン捕囚から故国に帰還したものの心が荒みきっていたユダヤの民に向かって、「神を待ち望め」と呼びかけました。神を待ち望むとは、ただぼんやり受身的に待つのではなく、神が私達に与えられた責任を果たしながら神の語りかけを待つことです。その責任とは「同胞に助けを惜しまないこと」、困難の中にいる人々を助けることとイザヤは言います。人生に不条理はつきものですが、そのただ中で神は私達に積極的に他者の隣人となるよう招いておられるのです。
5 月6 日「蛇と鳩」マタイ10:16
『よきサマリア人』の話です。もしもあなたがそのサマリア人で、倒れている人が2 人いればどうしますか。まずなすべきは、2 人の傷を確かめ、重傷の人から手当てすることです。愛を行うには、状況を正確に見極めて判断し、なすべきことを見抜く洞察が必要になります。この聖句の言う蛇は正しい状況判断をする賢明さの象徴、鳩は愛と親切な行いの象徴です。何をなすべきか、我々は互いに意見が食い違い衝突することがあります。しかし私たちが辛抱強くことにあたりかつ謙遜に祈り続ければ、神は働いて下さいます。
5 月13 日「わたしにつながっていなさい」ヨハネ15:1-6
現代人は、常に他人が自分のことをどう評価しているか気にします。集団の中にいても疎外感と孤独に悩まされます。しかし、私達を感動させるニュースを聞くことがあります。先日地下鉄で、線路に落ちた人をある男性が身を挺して救出したことがありました。このようなニュースが私達の心を揺さぶるのは、それは私達のあるべき姿を思い出させるからです。即ち、他者との断絶ではなく連帯すること、愛し合うことです。主イエスは「私につながっていなさい」と言われました。ぶどうの木はイエスであり、ぶどうの枝は私達です。枝は木につながっていてこそ実を結べるのです。そうしてこそ人を愛することが出来ます。それは他人にはあまり評価されないかも知れませんが、人間の人間らしさは神の評価によって決まります。
5 月20 日「わたしはあなたを友と呼ぶ」ヨハネ15:11-17
「私は岩だ。私は島だ」と語る詩がありますが、現代人の心に満ちている疎外感や孤独感がよく表されています。しかし、それは助けを求める叫びです。私達の心には何か大切なものが欠けていることを、私達は知っています。それは何なのでしょう。聖書は、それは他者へのあわれみ・慈しみ・共感であると教えます。この愛こそ人間の人間らしさの基盤です。しかし、それは神が私達を愛して下さっているという事実に裏打ちされていなければなりません。イエスは、「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われました。人間は孤島ではありません。イエスは私達を和解・平和・連帯を願う人に変えて下さいます。
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